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日々徒然に

日々徒然に

私と病気4

私と病気 4

 大阪の私立大学に進学はしたものの、毎日やりきれない思いだった。まじめに勉強している私と、後悔に身を嘖んでいる私がいた。なぜ手術をしてしまったのだろうと、自分を責めた。時には親にも当たった。

 大学に通いながらも新幹線でO大病院にも通った。薬が欠かせないのである。薬を止めれば体の硬直は更に進む。私の症状が悪くなった頃から、私の主治医はどこかに行ってしまった。また2年ぐらい経つと、助教授も他の大学の教授に栄転していった。後任の助教授は、初めて見る顔だった。医局員もほとんど変わっていた。私を前任の助教授が残していった厄介者のようにみた。大学を卒業するとともに、そのO大病院から地元の病院に移った。大学病院と言うところは、余程のことがなければ行くところではないと思った。

 大学の4年間で症状がかなり進んだ。首が右側に大きく傾き、右手はほぼ使えず、左手でようやくミミズの這ったような字が書けるだけだった。言語障害も更に激しくなり、初対面の人とは会話が出来なくなっていた。大学はキリスト教系の学校だったため、在学中はなんとかやれた。

 しかし、両手が不自由で、しかも話すこともほとんど出来ないものにとって就職口はなかった。現在のようにパソコンがある時代なら何とかなっただろうが、その時代はそんなものは無かった。

 家に帰って悶々とした日々を過ごした。病院と家の往復だけだった。そのうちに東京の親戚から犬をもらってくれとの申し出があり、黒い犬が「あさかぜ」に乗ってやってきた。一度、その犬を連れて外を歩いてやった。すると、次の日の夕方から鳴いて催促するようになった。

 最初は嫌々だったが、そのうちに夕方の散歩が楽しくなった。首の曲がった私の姿を人に見られても平気になった。その犬が、私をまた外の世界に引き戻してくれた。その犬には感謝しても仕切れない。

 ある医師が、身体障害者手帳の申請をしてみなさいといった。就職に有利だからとのことだった。私は地元の総合病院に行って診察を受けて申請を出した。2級との診断だった。その時の私には2級がどれほどのものか解らなかった。重い方から2番目と聞いて驚いたのを覚えている。

 しばらくして、それまで掛けていた年金を払わなくても良いとの通知が来た。当時の私には、それが健常者の社会からの縁切り状のように思えた。相当に落ち込んでいたのだろう。


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